【神輿みたまま】大和田の裸神輿

★ 情報提供者:はっちゃん

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 こんばんは はっちゃんは今年も7月24日(金)25日(土)の夜、埼玉県新座市
大和田の氷川神社の祭に行って来ました。

 大和田の氷川神社は延歴二十一年(802年)より、大和田一円の鎮守として
奉られてきた神社。そして祭は江戸初期から始まったとされていますが、記録
に残っているのは文政二年(1819年)から。いずれにしても古い歴史をもつ神
社の古い歴史をもつ祭なんです。
 神輿の大きさは台輪で3尺8寸くらい。延べ屋根平屋台で、飾り綱は紫、鈴
が付いています。屋根飾りは擬宝珠で、担ぐときはきっちりと胴に晒を巻きま
す。棒は添え棒が短めの4点棒。と言った所が神輿の概要でしょうか。
【裸神輿の法被】
 毎年、おじゃましている神輿。今年で4回目になります。
 今年は、前祭典実行委員長に、前若衆頭(この祭では「はっぴがしら」と呼
んでいますが)Kさんをご紹介いただき、法被をお借りすることが出来まし
た。これは非常にうれしい事でした。
 毎年ご紹介しているので、ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、この神輿
は、白足袋と晒一反の締め込みだけの姿で担ぐのが決まりです。肩当てにして
いるだけで、ほとんど誰も着ていない純白の「はっぴ」です。でも江戸時代か
ら連綿と続くこの祭にとって非常に大切な意味があります。

 この祭の「はっぴ」は新座市の大和田地区、中野地区の若衆代表として、選
ばれた30人の担ぎ手だけに貸与される、大変名誉の証なのです。(昔は中野地
区にも、法被は廻らなかったようですが、明治42年に中野の熊野神社が氷川神
社に合祀され、その後の変遷を経て、中野にも法被が廻るようになりまし
た。)彼らは「はっぴさん」と呼ばれます。そして、法被のない担ぎ手は裸に
なれば神輿を担ぐことは許されますが、それは「やじうま」と呼ばれ、正規の
担ぎ手とは、区別されています。

 時代が変わって、昭和60年台にはトラックで運ばれていた位、担ぎ手不足に
悩まされている神輿です。「はっぴさん」になるには役員の推薦をうけた「氏
子」であることが原則ですが、大和田に務めている人等にも「はっぴ」が廻さ
れているのが現実です。それでも「はっぴ」が厳格に管理されているのは従来
通りです。ちなみに、はっちゃんも金曜の夜、一旦Kさんに法被をお返しし
て、土曜日の夜、又お借りしました。もちろんKさんのご配慮で昨夜の汗と泥
はきちんと洗濯されておりました。


【町内渡御】
 金曜、土曜とも渡御の道順はほぼ同じ。
 小型トラックに乗ったお囃子の屋台に先導され、高張堤灯を掲げて神輿が渡
御します。神社の裏手の鎌倉街道(細くて車のすれ違いもできないような道で
す)を進み、旧川越街道(これはバス通り)を英橋迄行って折り返し。川越街
道を新座駅近くまで行って折り返し。神社へ戻ってこんどは正面の鳥居を潜っ
て入ります。折り返し点は大和田と中野、大和田と野火止の各々境界のところ
です。これは、雨乞祭といいながら、熱送りも込めたものと思います。
 担ぐときのかけ声は「やんよー。やんよー」です。普通に担ぎ、歩きま
す。「江戸前」のようにステップも踏みませんし、「どっこい」のように、唄
にあわせることもありません。前後の人との呼吸があわないと、足を蹴飛ばす
ことになります。

 金曜日の接待所に、旧家の庭先をお借りする所が在ります。この大和田は新
座市のなかでも、古くからの、豊かで、変わらぬ風情を保っている地域なんで
す。だからこそ、古くからの祭がかわらず伝えられているんですが。九十才に
なるおばあちゃんが、担ぎ手に昔からの屋号で話しかけることもあるんだそう
です。
【揉んで、差して、廻って】
 そして、渡御の要所要所では神輿を大きく、揉んだり、差したり、廻したり
します。神輿の飾り綱の鈴を合図に、神輿を揉みます。
 「そーら、もんでみろ。もんでみろ。」が合図です。左右の本棒を支点に、
左右の添え棒がジャンプ・兎飛びを繰り返します。これがこの神輿の担ぎの一
番の特徴であり、一番きついところです。左右の添え棒を「トンボ」といいま
す。「そ〜ら、トンボ、しっかり跳べ〜」と廻りから声援が飛ぶのです。

 羽田神社の「ヨコタ」担ぎと似ていますが、羽田では「トンボ」が神輿のほ
うを向きます。がこちらでは、正面を向いたまま跳びます。そのため、皆でき
ちんと股を割って跳ばないと、いけないのです。昔、股を割らない人がいて、
その人の膝の上に、前の人が落ちてきて、背骨を折って死亡するという事件
が、起きたこともあるんだそうです。
 この神輿が、いまだに褌で担ぐことを頑なまでに守っている理由は、半股引
では、きちんと股を割ることが出来ないからです。

 そして、大きく向かい合って神輿を差し上げ、神輿を腰の高さに支えてグル
グル廻って、見せ場では力の限りで、荒神輿振りを披露します。御祭神が素盞
雄尊ですから、荒れれば荒れるほど、お喜びになるのです。


【境内で】
 境内は本殿の中に、神輿の神酒所が設けられ、脇に、神輿のお仮屋が作られ
ます。このお仮屋で、金曜の晩に神輿が一夜をすごします。

 以下広場を中心に、左廻りに、お囃子の保存会の花掛け(◯◯ 金一万円也
なんて書いた紙が貼ってあるベニヤ板)
 隣に、二階建ての立派な「大和田囃子保存会」の囃子棚が建てられていま
す。この囃子屋台は二階が、大和田囃子の舞台になり、一階が、保存会の受け付
けと、休憩所になります。はっちゃんは二階建ての囃子屋台は他では見たことが
ありません。
 かつては大和田を上、中、下に分けその各々にお囃子の屋台を作り、各々の
屋台の前に夜店がならぶほど、盛んな祭だったんです。今は「交通事情」とや
らで屋台は境内だけで、町内渡御はトラックになっているのですが。
「銅の屋台を頼んだら、金の屋台ができちゃった。」と保存会の役員
が言っていた位、誇り高きお囃子屋台です。

 さらに神輿が駆けこんでくる、参道をはさんで、神輿の花掛けがあり、とな
りに社務所があって、境内ぐるっと一廻りです。
 
 7時から9時まで二時間の、町内渡御を終えて、元気よく境内に駆けこんで
きた神輿は、境内で待ち受ける沢山の見物人の前で、何度も何度も荒神輿振り
を披露します。
 今年は、金曜日が9時から10時過ぎまで。土曜日は9時から11時過ぎまで、
休憩をはさみながら、境内で神輿を揉みました。
 神輿が揉んでいるあいだも、休んでいる間も、お囃子は棚の上でずっと奏で
られ、舞われています。
 最終日の土曜日には、二つの花掛けに、勢いよく神輿をぶっつけて木端微塵
に粉砕したあと、神輿を本殿に納めて、「ヤンヨ、ヤンヨ、ヤンヨ」と声を合
わせ、手拍子を打ち、祭は無事終了しました。
 去年一昨年と行なわれた「女性神輿境内渡御」は今年は行なわれませんでし
た。
 
【役員交代/担ぎ手交代】
 この祭は役員は3年交代なんだそうです。ちょうどはっちゃんがこの祭に来
初めて4年目ですから、初めて来たときが、新しい役員さんの最初の年だった
ことになりますネ。
 役員が年次で交代して行くのは、ごく普通で、どこでもあることです。た
だ、不思議に思ったのは、担ぎ手も大きく顔振れが変わったことでした。去年
までは毎年、若干の新顔がいても、ほぼ同じという印象だったのですが。

 察するところ、担ぎ手の「スカウト」が役員さんに担われているという事なん
でしょう。義理で来ていた担ぎ手が、頼む人がいなくなったので、消えた・あ
るいは観客になった.......。その為、今年は担ぎ手が少なく、白の上下の服
を着た役員も、なんども神輿を支えていました。
 去年まではこの祭は、担ぎ手不足と言われながらも、安泰と思っていたので
すが、今年はちょっと........とも感じさせられました。上半身裸に、半股引
をはいた担ぎ手があらわれたり(もちろんヤジウマですが)跳び方、差し方も
イマイチ決まらなかったり。警察の圧力でしょうが、役員は全員、夜のガード
マンが着るような白い蛍光ヴェストまで着せられていました。以下に夜の道路
とはいえ、あれは暑いし格好悪いですよね。せめて、境内だけでも脱いで下さ
いネ。

【でも来年は】
 今年初参加したのお父さんも、「幼稚園の樽神輿しか担いだことがない。こ
んなにキツイんじゃ、途中でリタイヤだ。」と言っていたんですが、結局、最
後までがんばって担ぎ通しました。来年も来るでしょう。
 去年まで中棒の前を押さえていた、彼は初日は囃子の格好で赤ちゃんを抱い
ていましたが、二日目は、裸で神輿に付いていました。云く「今年は両方楽し
むんです。」と。
 去年まで後棒を支えていた彼が今年は、鈴を振りならし大声で号令を掛ける
係になっていました。
 去年までとんぼの一番前でがんばって跳んでいた彼が、今年はとんぼのうし
ろで、前の連中を一所懸命指導しながら、跳んでいました。そして彼が言いま
した。「ダメなことは、ダメだった。とはっきり書いてもらったほうがいいん
です。そのほうが来年がんばるから。」と。

 彼等ががんばっているんです。来年はきっと盛り返すでしょう。
 
 そして、二日間に渡って担いだはっちゃんは、日曜には、手摺につながらな
いと階段を下りられない足になっていました。なるべくトンボをさけて本棒に
付くようにしていたのですが(-_-;)
 
    はっちゃん @NIIZA saitama QZM02610 でした。



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